
「地域の家」のリビングには、髭面の笑顔のおじさんの大きな写真が貼ってある。「地域の家」を始めた里地文平さんである。
「地域の家」への思いを語ろう。僕の知らない多くの存在を意識しながらも里地文平さんとの出会いのことを語ろう。
初めて会ったのは、1980年半ば 僕が大学生の頃 時代はバブルに向かう前、反戦・反差別をはじめとする京都の社会運動の現場に 彼はいつもそこにいた。「戦争を許さない!」「差別を許さない!」ことを貫く彼の姿は 一学生として社会運動の片隅をウロウロしていた僕にとって新鮮な記憶としてある。
二度目にあったのは、1990年代半ば。僕が介護の仕事に関わり始めて友人たちと試行錯誤を始めた頃、京都市のソーシャルワーカーであった里地さんが仲間達と共に、障害をもった人々の「居場所」として「地域の家」を始めたということを耳にした。里地さんの話を聞こうと小さな集まりを持った。その後、伏見でもこんなことをしたいねと語り合っていたのを思い出す。里地さんの訃報を聞いたのがその数年後。そして、21世紀を迎えたある日、学生の頃からの友人でもあった前理事長から「理事就任依頼」の電話。里地さんとのご縁も感じていたし、「いることで役に立つならば」とホイホイ理事就任、「地域の家」との長く緩いおつき合いが始まる。
そして、三度目の出会いは2019年の秋。理事長に就任した時。正直なところ、里地さんが生きられていたらどうしていただろうと思うことは多々ある。色々とあるけれども、頑張ってくれるスタッフたちがいて、住人の皆さんの笑顔を見ることができる。
(理事長 吉田信吾)
「地域の家」の創設者の里地文平さんのエピソードを二つ紹介して思い出に替えたいと思います。
一つは、文平さんの障害を持つ方への眼差し、リスペクトに関わるものです。彼が「地域の家を」作る前に、私たちは山科で障害を持つ子供たちの教育支援をしていました。小さな部屋を借りて集まったり、バスを仕立てて琵琶湖へ水遊びに行ったりしていました。そうした行事の中で私は自然に子供たちの名前をファーストネームで呼ぶようになりました。つまり「〇〇ちゃん」という風に。ところが文平さんは絶対にそうした呼び方をしませんでした。必ずファミリーネームで「〇〇さん」とさん付けで呼んでいました。確かにちゃん付けは親しみを込めた呼び方ですが相手を対等には見ていないという風にも聞こえます。文平さんはそれを拒否し、人として扱おうとしたのだと思います。
もう一つは、文平さんらしいエピソードを。これは本人が肯定したわけではないので私の憶測です。ある日文平さんの家で食事をしていたところ話の成り行きで、連れ合いさんが「このひと、給料袋電車に忘れてきたんやで」とあきれ顔で。私は「それはないやろ」と言いましたが、当の本人は「(漫画雑誌)ジャンプについ夢中になって」との弁明。それ以上は追求しませんでしたが、マンガを読んでいたとの弁明に彼らしさを感じたものでした。今振り返ってみると、ひょっとして何か(総合運動の処分者救援カンパなど)に全額寄付していたのではないかとも思っています。彼には「私財」という考え方はあまりなかったようにも思います。
以上、今となっては懐かしい思い出です。「地域の家」にはこうした文平さんの思いが詰まっているのでしょうか?
(友人 文字屋錦愚)
障害者の親として生きてきた中で里地文平さん抜きには今までを語れない…。そんな人でした。元気でいてほしかったと今も残念に思っています。
ここ地域の家には周りを気にすることもなく大きな顔をして楽しみに行かせてもらいました。夕方になると親子でご飯を作ったり皆でワイワイ・ガヤガヤ言いたい放題。それでもいつもニコニコと大きな心で受け止めてもらえる里地さんでした。
日に日に体調が悪くなる中でもいつものように一人一人やさしく接する里地さんが心配で心配でついつい口に出したことがありました。すると、”今、助けてほしい人がそこに居てほっとくんかー!!”と、どなられた事がありました。
里地さんの人としてのすごさ・やさしさを思い知らされた時でした。今も忘れられません。
こんな居場所、そしてあの時間を共に過ごせた事。私には今も大きなささえとなっています。
(利用者の親 坪内佐枝子)